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柳川の舟歌

掘割りの水のように

(1)

(1)は川下りの船頭になろうと決めた。なぜ、そう決めたか。自分でも明確には説明できない。それでもその日はやってきた、突然に。23年5月、大学の同級生O君と共に博多に行った。彼は建設重機の輸出入を取り扱っていてその展示・商談会に同行した。僕は損害保険会社や総合商社の日商岩井で主に保険関係を通じたリスクマネジメントの仕事一筋に定年まで勤め上げ、その後はある業界団体の役員と個人でリスクマネジメントのコンサル業を行っていた。O君の仕事は建設重機の海外への輸送だが、そこには保険がつきもの。僅かな保険料率の差や輸送中の事故は利益に直結する。複雑な交渉を一から学ぶのはしんどい。僕の経験で手伝える場でもあった。商談会の最終日、東京に帰るまでに一日の空白が生じた。かつて僕の部下だったユカさんが九州営業所の所長となっているのでせっかくの時間を有効に観光できる場所を聞いたところ、彼女の提案で柳川の川下りに行くことになった。そこで僕の運命が変わった。


その日は晴天。風もなく暑い日だった。西鉄電車の柳川駅から歩いて十分ほど。笠を被った船頭さんが平底のどんこ舟を棹一本で操る。舟は20人ほどの観光客を乗せて離岸した。

柳川は立花藩11万石の城下町。関ケ原の戦いで武功があった初代藩主・立花宗茂が1587年、この地に封じられたのが始まり。戦国大名らしく城下の守りを固めた。それが水郷である。市中に堀を巡らせ矢部川の水を引き入れる。くねくねと曲がる堀の一か所に狭い水門。そして、頭をかがめないとくぐれない低い橋があちこちにある。市街地をこのような構造にすれば一度に多くの兵を移動することができない。地理に不慣れなよそ者は通行が難しい。難攻不落の水城と言われた由縁である。

舟はゆらゆらと民家の庭先をかすめるように滑っていく。石積みの階段がある。その石段を「くんば」と呼ぶ。かつて桶を担いで水を汲むのは子供たちの仕事だった。その水を炊事や洗濯に使ったという。人々の生活が垣間見えた。
木々の緑、屋根の赤や青。様々な色が水面に写り込み、どこを見ても一服の絵だった。木の陰に立って微動だにしないのは青鷺。長い足と鋭い嘴で小魚を狙っている。韓国人カップルがスマホを向けてシャッターを切った。その瞬間、青鷺はふわりと中空に舞い、どこかに消えた。

どんこ舟は約4キロのコースを巡って立花家の屋敷「御花」の近くへ。北原白秋はこの辺りで生まれ育ち、作家・檀一雄も柳川の風土に溶け込んだ人である。舟を降りると「船頭募集」の張り紙が見えた。「やってみたい」。僕の体に電気のようなものが走った。

(1)室井徹也 1956年、東京生まれ。1979年、東京商船大学航海科卒。日商岩井入社。同社を定年退社後、日本ルーフレジリエンス協会専務理事。現在は柳川観光開発社員。

(2)

棹一本でどんこ舟を操る僕、この時は雨天用のかっぱを着ている

三柱神社の太鼓橋を渡ったところに「松月文人館」という古風な名前の船着き場がある。そこに船頭を募集していた会社(柳川観光開発)がある。年齢のこと、無経験でも構わないのかを確認した。大丈夫だという。

面接を受け付ける旨を確認後、3回のリモート面接が実施された。採用が決まり10月には柳川に移住した。下宿は家賃約5万円の1DK。小さな冷蔵庫と洗濯機、電子レンジ。一緒にどんこ舟に乗ったO君は「頑張れよ」といい、近所の人が炊飯器を差し入れてくれた。移動用の中古軽自動車は5万円+車検タイヤ交換で約10万円。

研修はまず柳川を知ることから。沖の端にある全ての資料館を見て回った。船体はFRP(強化プラスチック)だが、それでも0・5トンの重さがある。20人のお客さん。平均体重を50kgとすれば1トンである。

夏目漱石は

智に働けば角が立つ 情に棹させば流される

と仰せだ(2)が、どんこ舟はずっしりと沈み、少々棹をさしたぐらいでは動かない。掘割りの水はゆっくりと流れている。風が吹けば煽られる。舟を流れに乗せるもの難しいが、流れている舟を操って止める方がさらに難しい。ここには「下り優先」のルールがある。これも流れ下っている舟を操るのが難しいことの表れだ。最大の問題は僕の体重が軽いことだった。研修を始めて飯が上手く、筋肉もついた。それでもまだ50kgを越えない。棹に体重をかけることで舟を操るのだが、僕にはその体重が足りない。こればかりは努力と技でカバーする以外にない。

船頭の試験は乗客を装った社員が舟に乗り、棹さばきやスピードかれこれをチェックする。年内に合格して船頭デビューするつもりが、二度の不合格。24年2月にどうにかOKが出たのだった。

(2)小説『草枕』の冒頭。

(3)

僕が大学を卒業したのは1979年。隆盛だったニッポン海運は諸外国船舶との激しい合理化競争にさらされた。船舶の大型化、省人化が圧倒的に進んだ。ちなみに2021年3月、エジプトのスエズ運河で座礁事故を起こした台湾のコンテナ船は、長さ400メートル、幅59メートル、22万4000トン、20フィートのコンテナを2万個以上運ぶことができる。直線距離で400メートルといえば地下鉄の一駅分にも相当する。それを20数人の船員が昼夜兼行で運航している。人件費の高い日本人船員は排除されて外国人船員へ。あらゆる形態の近代船舶が登場しては消えていった。

そんな激動の時代。商船大学の卒業生で最後まで船に乗れた人間は極めて少ない。僕が商社に就職したのは激動を予期していたからではない。日商岩井は船舶関係の商圏が強く、定期的に商船大学の卒業生を採用していたのだ。

総合商社の世界も競争の厳しさに於いては人語に落ちない。昭和から平成に変わった1989年。「リゲイン」という栄養ドリンクの宣伝歌が流行った。

♪アタッシュケースに勇気を詰めて24時間戦えますか

その通りの時代だった。海外との時差もあって1日25時間働いていた気がする。そんな感じの日々だった。やがて「グローバリズム」がキーワードとなっていく。まさに地球規模での競争である。そんな中で僕は誠実に生きてきたという自負はある。

どんこ舟は約4キロの川下りを終えて乗客を降ろすと同時に迎えの車で元の出発地、松月に戻って行く。これを1日2回、多客期には3回。その後、空舟をまとめて松月まで回送する。わずかな休憩時間に弁当を掻きこむ。柳川全体では7社が川下りの舟を運航している。乗客は外国人が多い。船頭は棹を繰りながら柳川の案内役を兼ねている。僕は歴史を知ってもらいたいと願っているが、なかなか通じない。歌を歌うと音を通じて気持ちが通じるのか、拍手を浴びる。もっと工夫しなければならない。

4月、同級生でこのホームページの管理人のI君が訪ねてきた。ゆったりとした気分になったと言ってくれた。福永武彦の小説『廃市』を思い出したという。僕はその小説を読んだことがなかったが、恐らくは褒めてくれたのだ。彼に聞かれてハッとした。千葉県浦安市の自宅には昨年10月から一度も帰っていなかった。

身体は慣れてきた。しかし、地元の言葉にはまだ不慣れだ。

「ちょっと、その棹をなおしといて」と言われたとき、僕は斜めに立てかけてあった棹を真っすぐに「なおそう」とした。この辺りでいう「なおす」は「片づける」だった。そんな調子である。

西鉄柳川駅前に毎日弁当を買う店がある。ご主人は東京生まれ、東京育ち。奥さんの実家である柳川で商売を始めた。夜のとばりが降りると弁当屋さんは飲み屋に変身する。三々五々、人が集まってくる。元小学校の校長さん、市議会議員、元国会議員、現役国会議員の秘書など様々だ。飲んで歌うと手拍子が入る。このようにして僕はだんだんと柳川に溶け込んでいく。観光でこの地を訪れた人々との一期一会。大切にしたい。

総合商社。保険。地球規模の競争。僕は様々な局面を生き抜いてきた。役職、肩書も得た。しかし、それらは全て僕の属性に過ぎなかった。役職や肩書を剥ぎ取った「本体」。自分自身は何だったのか。理屈っぽくいえば、生身の自分と向き合って生きていきたい。「船頭募集」の張り紙に自分を賭けてみようと思ってから1年が過ぎた。生き馬の目を抜くような競争世界とは違う生き方をしてみたい。そこに何かがあるに違いない。掘割りの水のようにゆっくりと生きていこうと思っている。