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2024年8月8日16時42分。日向灘を震源とするマグニチュード7・1の地震が発生した。二時間後、気象庁は「南海トラフ地震に関する臨時情報」を発した。彼らは自身のホームページに「地震予知はできない」ことを明言している。予知はできないが、巨大地震発生の確率が相対的に高まっているという。その理屈、筆者にはよく分からないがここでは踏み込まない。
臨時情報の影響は甚大だった。想定震源域とされる広大な地域では旅行・宿泊などのキャンセルが相次いだ。白浜海岸(和歌山県)に全く人影がない映像がテレビに流れた。お盆休みのトップシーズンだっただけに観光関係者の経済的損失は大きかった。同日から中央アジア五か国を歴訪する予定だった岸田首相は、出発二時間前になって取りやめた。このような形での「ドタキャン」は外交上の信用を失墜させる。影響はそれだけではなかった。人々の不安心理をあおり「令和の米騒動」の引き金になったのだ。
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読売新聞(8月16日)によると、首都圏のあるスーパーは8銘柄の米を扱っていたが2銘柄しか入荷せず、価格は5キログラム1500円が2400円に。新米は2900円と2倍近くにハネ上がった。他のメディアにも、米を求めてスーパーを回った主婦の話。米を見合わせて素麺を食べているという主婦。値上がりに悲鳴を上げる寿司店の話。問い合わせの多さに対応しきれず、シャッターを下ろしたという米屋さんの話などが紹介された。
わが家の近所のスーパーM(福岡市城南区)では、8月中旬、売り場から米が消えた。下旬には米の販売棚を従前より広げ、価格も据え置いて米を並べた。
「心配しないで。米はあります」
という経営者からのメッセージだろう。ところが、さらに一週間ほどした9月初旬。米の販売棚そのものが撤去された。従業員女性に聞くと、売り切れてその後入荷しないと言う。
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米不足の原因については、前年の猛暑で一等米が品薄であったこと。海外からの観光客による米の消費が多かことなどが挙げられた。ロシア・ウクライナ戦争で輸出が減り、世界的に小麦が上がっている。その点、米は割安感があり外国人観光客が好んで食べたのだという。間もなく新米が市場に出回るので、消費者は落ち着いた行動をとってほしいというのが農水省の弁であり、新聞、テレビ、週刊誌などの大方の論調だった。
部分的にはその通りだろう。しかし、何か釈然としない。訪日外国人が1日2食、腹いっぱい米を食べたとしても、せいぜい2~3万トンであろう。この程度の増加で米騒動になるものだろうか。
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米の安定供給は千年の長きに亘ってこの国の中心課題であり、歴史そのものと言っても過言ではあるまい。ひとたび飢饉になって米が絶たれると多くの餓死者を出したのである。その痕跡を訪ねた。
飢人地蔵は九州最大の繁華街・中州(福岡市博多区)にある。木造の社に地蔵様が鎮座する。「飢人地蔵尊由来」にぞっとした。享保17~19年(1732~34)年、虫害、水害、疫病にて「この世ならむ地獄相」を呈した。全国の死者264万5千人。筑前国で9万6千人が餓死。博多の町では男1万1054人、女8462人のうち約6千人が餓死した。実に人口の約3分の1が失われ、福岡藩士・長野源太夫は「市中の貧乏人はほとんど死んだ」と記している。
江戸期は農業技術も今ほど発達しておらず、害虫の被害も深刻だった。特に蛾の一種である螟(メイ)虫に見舞われると稲穂は白化して全く実らない。一杯の粥を求めた人々が街をさ迷い、行き倒れた。福岡藩は領民に米を供出した。備蓄している古古米から食べるのが習わしである。しかし、飢饉が三年も続くと打つ手がなかった。鎖国の時代であって外から食糧を輸入することができなかった。亡骸を積み上げた場所に地蔵様が刻まれたのである。
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この国では昔から米の共同管理がなされた。収穫した米の一定量を集落の神社などに集めて備蓄する。備蓄米は三年前の「古古米」から人々に再配分したといわれる。災害の多い土地に暮らす知恵、生存原理だったろう。集落から村へ、国へと米を上納し、飢饉が起きた地域に手厚く再配分する。米を基軸として社会が運営されたのである。
筆者は戦後教育を受けた世代である。支配階級である武士が、農民から年貢米を取り立てて苦しめたと教えられてきた。そのような局面もあっただろう。しかし、全体が搾取、被搾取の関係だったと考えるのは如何なものだろう。
江戸時代は気候寒冷で白河(福島県)以北では米が取れず、しばしば大飢饉に見舞われた。先人たちは大阪・堂島に米の先物取引会所を設けていた。諸藩の余剰米を過不足なく全国に行き渡らせるためである。余剰米が出ると判断した藩は約束手形を発行し、米不足が危惧される藩は約束手形を買い集めて飢饉に備えた。秋、米が実ると各藩の蔵屋敷に約束手形を持参して米と引き換え、それぞれの国元へ送った。搾取、被搾取という視点だけでは見えてこない光景であろう。
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時代が下って太平洋戦争中の1942年。食糧管理制度が始まった。農家が生産した米を政府が買い上げて国民に分配する。食糧難を乗り切るための統制経済である。家族ごとに米穀通帳があり、これを提示しなければ米の配給を受けることができなかった。食管制度は戦後も続いた。配給米だけでは生きていけず、人々は農家を訪ねて物々交換で米を手に入れた。統制経済には抜け道がつきもの。独自の裏ルートで米を仕入れ、売りさばくヤミ米稼業が横行し、その摘発も厳しかった。
東京区裁判所の山口良忠裁判官は「ヤミ米」などの経済事件を担当していた。配給された米のほとんどは二人の子供に食べさせ、自身は米汁や自宅の庭で栽培した芋だけを口にしたという。栄養失調となり故郷の佐賀県白石町に帰って療養したが、1947年11月に亡くなっている。
ある人が以下のような思い出話を語ってくれたことがある。食糧難だった戦後のことだ。
「恋仲になった女性と駆け落ちしようということになった。東京で新しい生活を始めようとしてねえ。博多駅で落ち合って列車に乗ろうとしたら、ボクも彼女も米袋を背負っていた。あのころは米を持参しないと旅館は泊めてくれなかったからね。米袋提げて駆け落ちか――。何だか可笑しくなって、二人とも家に戻ったよ」
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官僚機構は国の統治に不可欠である。だが、一度決めた制度を変えようとしないという欠点を併せ持つ。そもそも官僚は、制度の番人だからだ。その強い保守性が必要な改革を阻み、国を危うくした例は枚挙にいとまがない。
戦後、この国は世界が驚くような復興を遂げ高度成長の時代を迎えた。1964年には初回の東京オリンピック開催。70年には大阪万博を開き、77か国6600万人超の入場者を記録した。経済大国ニッポンが出現したこの時代でも農水省は食管制度を廃止しなかった(1995年まで存続)。
国民の生活は豊かになった。洋食化も進んで米の消費が減っていく。物価は上がり農家は米の価格が上がらないと生活できない。生産者は「より高く」、消費者は「より安く」。農業団体や消費者団体がのぼり旗を掲げ、鉢巻きを締め、国会周辺に集まって気勢をあげる光景をテレビが映し出していたものである。このような過程を経て「農協=族議員=農水省」という鉄のトライアングルが形成されていった。
生産者からは高く買い、消費者には安く売る。逆ザヤで食管会計の赤字は増えるばかり。古米、古古米、古古古米。倉庫には米がダブついた。このような状況に鑑みて始まったのが減反政策だ。長い回り道をしたかもしれない。以下、令和の米騒動の核心である減反政策について考える。
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減反政策は米の収量を減らすことによって、大赤字に陥った食管会計を健全化しようとするものである。1971年に始まり、2018年に安倍内閣が終了宣言するまで50年近く続いた。「終了宣言は政治的宣伝に過ぎず、今も終わっていない」と主張する人物もいる。山下一仁氏である。「数値目標こそやっていないが、その本丸(補助金)は残っている」という。彼は農水省キャリアを経て現職(キャノングローバル戦略研究所上級研究員)にある。毎日新聞の取材に答えた発言は無視できない重みがある。
都道府県ごとの数値目標で網をかけ、その網をだんだんと絞っていく。市町村ごと、地区ごと。最終的には農協によって農家ごとの作付け、収穫量を決めていった。数値目標は実質的には「減反ノルマ」だった。下に並べた数字は見事な右肩下がり。粛々とノルマが達成されたことが明らかだ。米からの転換作物として麦、豆、牧草、花きなどが推薦された。転作した人、休耕した人には奨励金が支給され、その額は毎年3000億円に上った。
作付面積 収穫高
1967年 1427万トン (ピーク)
1969年 317万ヘクタール (ピーク)
1975年 272万ヘクタール 1309万トン
1995年 211万ヘクタール 1072万トン
2010年 170万ヘクタール 900万トン
減反政策を一口で言えば「縮小均衡」である。税金で生産を縮小させ、米価を維持する。消費者の立場からすれば、自分が払った税金によって高値が維持され、その米を買わされてきたことになる。今日、学校給食以外に満足な食事ができない子供たちが増えていることを併せ考えれば、罪深いことである。減反政策によって生産量がギリギリまで絞られてきたからこそ「外国人観光客がたくさん食べた」ぐらいのさざ波で全体が揺らぐのである。
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米の価格・収量を「鉄のトライアングル」が決めるのではなく、農家の自主性に任せることができなかったのだろうかと思う。超一等米から二等米までさまざまな等級の米が生産されただろう。5キロ1万円の米を食べたい富裕層もあれば5キロ1千円の米で我慢する低所得層もあう。米作りを自主性に任せて農家の生活が立ち行かないならば生活支援金を支給する。そんな仕組みでよかったのではないか。さらに、国内限定で米の問題を考えるのではなく、海外への輸出を志向しても良かったはずだ。スーパーMでは昨秋までカリフォルニア米を売っていた。試しに食べてみたが、私の口には合わなかった。
現在、専業農家の平均年齢は71歳、兼業農家は69歳である。彼らは20代のころコメ作りを始めた。まもなく減反政策が始まり「米以外のものを作れ」と言われたのである。「金をやるから米を作るな」とも。これでは働く意欲が削がれたにちがいない。00年に170万戸あった農家は23年には58万戸に減った。減反政策がなければ、今日ほどに無残な農村(農業)の崩壊は起こらなかっただろう。辺地、離島ばかりではない。消費地に近い大都市近郊でも農業の崩壊は顕著だ。福岡市郊外、近隣の糸島市にも耕作放棄地が拡がり、ジャンボタニシによるイネの食害が象徴的である。ジャンボタニシの食害は適切な対策を取れば防ぐことができるが、高齢化した農家にはその気力がないように見受けられた。
米騒動が一服した9月下旬、佐賀県唐津市にあるJA佐賀の直営店に行った。店の入り口付近には何事もなかったように新米が山積みされ、販売価格が15パーセント程度上がりしていた。
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泰山鳴動して値上げの秋――だったのか。実はそうではなかった。今年の通常国会で農業基本法の一部改正と食糧供給困難事態対策法が成立している(5月30日)。筆者はその記事を見落としていた。
地球温暖化、世界的な紛争の拡大を受けて食糧の安定供給体制を構築しようというのが食糧供給困難事態対策法の趣旨である。共同通信の配信によると、例えば園芸農家に米やイモ類などを作るよう指示することができ、従わない場合には20万円の罰金。さらに深刻化した場合、氏名公表などの措置を取るという。
罰金に氏名公表―ー。この強硬さが不気味だ。温暖化や海外情勢の変化に関わらず、食糧自給体制が内部から自壊していることの証左ではないだろうか。筆者は飢人地蔵尊を思い出して暗澹たる気分に襲われた。
この国の食糧自給率は37パーセント(カロリーベース)だが、肥料・農薬の原料、そして、種子まで外国産に依存している。何かの事情でこれらが入ってこなくなれば自給率は数パーセントとみられる。農村(農業)崩壊が続く中で農水省は減反政策を続けてきた。そのことをうやむやにしたまま、今度は食糧増産だという。世が世なら一揆が起きてもおかしくなかろう。
高齢化した農民に罰金などをちらつかせて問題が解決するとは考えられない。やる気のある人材が農業に従事しやすい環境を整えることに注力すべきではないか。カネと脅しが何になるというのだろう。農水官僚と議論しても始まらない。彼らは需要と供給を予測し全体を掌握した、いわば「全能者」として振舞っている。それは机上の計算に過ぎない。
イネは自然の生き物。人間の小さな頭脳で測り、全てを知ることは困難である。収量などは本来的に予測不可能としたものだ。たとえば1993年、ピナツボ火山(フィリピン)の噴火で日照不足となり、作況指数73の大凶作に陥ったことは記憶に新しい。火山噴火まで誰が予測できよう。
官僚の独善と傲慢を撃つには、新しい風を起こす以外にない。肥料、農薬を全く使わない、農地を耕さない自然農法による生産を確立し、地方のコミュニティーで流通させる。やり方は地域ごとに違っていい。いや、違うのが当然だ。そのような成功事例を積み上げていく以外にないと思う。
いつの世も変革は地方の小さな渦から始まる。
なるほど。そういうことだったのかと種々勉強になりました。
飢人地蔵の逸話はショックです。飢えを実感できずに、私はぼーっと生きてきたので。
農政はノー政とも言われてきましたが、また新たな猫の目法ができたんですね。農家大変。