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点描シリーズ1

染井吉野

「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」とは ベテランの植木職人から伺った言葉である。梅は大胆に切ってよい。しかし、桜は不用意に切るとたちまちバランスを崩し樹勢が衰えて回復が難しいのだと。

散歩道。身をよじるような姿の染井吉野に出会った。土の中に蠢く何かが染井吉野を通じて地上に噴出したもののように見える。よじれは必ず反時計回りである。つまりは地球と同じ回転ではないか。ひょっとしてこの木を南半球に植えたら逆向きに捻れるのではないか。私にはわからない。わからないから楽しいのだ。

シンガポール

パソコンを立ち上げたら写真のような待ち受け画面。学生時代に行ったきりご無沙汰のシンガポールである。以前の長閑な姿とは一変している。都市も「上へ、上へ」と伸びる生き物のようだ。これが「発展」というものだろうか。ちょっと不気味だ。

かつてNEW BRIGE ROAD ✕✕✕番地に「さくらのや」という日本式レストランがあった。韓国人の船乗り仲間たちと鯨飲馬食。帰り道。サインパンを待つ波止場でギリシャ人船員の一団と殴り合いの大喧嘩になった。理由とてない。肩が当たったぐらいのことだったろう。シンガポール港警察にしょっ引かれたのは1979年の夏だったなあ。カラオケのマイクを回して気炎を上げていた我々の隣で受験勉強していた「さくらのや」の娘は還暦を迎えたはずだが。どうしているだろうか。

グーグルマップに所番地を打ち込むと、「さくらのや」があった場所にガラス張りのこじゃれたビルが建っていた。見ない方が良かったかもしれない。

からすみ

フェイスブックの友人が「からすみが食べたい」とつぶやいていた。長く病床に伏す人である。あの濃厚な味の記憶が病室で蘇ったのだろう。「台湾のからすみも美味いですよ」と送信したものである。ややあってスマホのアルバムを開けるとからすみを干す写真(台湾・高雄市)がトップに表示されていた。

三年ほど前に訪台したときのスナップである。ただの偶然だろうか。最近のAIには馴染めない。いや、忌々しい。こいつがますます発達したらどういう世の中になるのだろうか。

悪態をついても始まらない。時代は前にしか進まないのだから。

勇魚と闘った男たち

宇能鴻一郎といえば「わたし、〇〇なんです」で始まる官能小説であるが、「鯨神」を忘れてはなるまい。血沸き肉躍る捕鯨活劇と恋愛を描いて芥川賞を受賞した。物語の舞台ははっきり書かれていないのだが、玄界灘捕鯨の中心地であった小川島(佐賀県唐津市)を訪れた。民家の脇から急な石段を上がった丘の頂に鯨の見張り小屋(魚見場)がある。眼前に紺碧の海が広がって視界を遮るものがなかった。

鯨が接近すると魚見場の竿に竹のむしろが掲げられる。むしろの種類、揚げ方で鯨の位置、種類まで知られたという。浜からは攻子舟、網舟など四十隻ほどが漕ぎだして闘いの始まりだ。攻子舟は両舷に三人ずつの漕ぎ手が櫓を押す快速艇。舟板をた たいて鯨を網に追い込む。網舟は先回りして鯨の逃げ道を塞ぐが、鯨は頭がいい。簡単には捕まらない。壱岐の沖合まで追い続けたという記録もある。

網に追い込まれて身動きが取れなくなった鯨をめがけて漁師たちが一斉に銛を打つ。泳いでいる鯨に銛を打ち込むには熟練の技がいる。太さは大人の二の腕ほど、長さなら3メートルばかりの樫棒を高々と投げるのだ。放物線を描いて落ちる樫棒の先端に埋め込まれた鉄の鈎が鯨の分厚い皮膚を貫く。十分に弱ったのを見極めると漁師の統領である羽差(はざし)が鯨によじ登り、鼻を切って綱を通す。獲物が沈むと引き上げることができないのだ。

鯨も最後の力を振り絞る。羽差はしばしば命を落とした。銛が鯨の心臓を貫くと海は真っ赤に染まったという。鯨は親子の情が深く、一度は逃げながら子鯨を救うために戻ってくることがしばしばだった。

小説は子鯨を失った鯨神と父を亡くした羽差との闘いを描いて手に汗握る。命をかけた死闘は至上の官能である。人々は鯨のことを勇魚(いさな)と呼んで称えた。勇魚を仕留めた夜は浜のあちこちで火を焚いてその霊を送った。 

骨切り歌が聞こえる

松浦半島と周辺の島々。この辺りは鯨の通り道で江戸時代に捕鯨が盛んであった。羽差と鯨の死闘は前述の通り。力尽きた鯨たちは呼子港(佐賀県唐津市)に運ばれて解体・加工された。その富は巨大で鯨組主の中尾家は唐津藩主より権勢を誇ったと言われる。今は記念館となった屋敷群の一つ、勘定場跡に入った。

黒板塀に白漆喰。武骨に組み合わせた梁は太く天井が高い。古い写真があった。褌に袢纏姿の男たちが群れるように巻き上げ機を回して鯨を引き上げている。二十メートルはあるだろうか。大物である。鯨の背中に乗り、薙刀のようなもので肉を切り分けている者がいれば、天秤棒を担いでその肉を運ぶ者も見える。どの顔も屈託なく笑っている。

中尾組の組衆は常時五百人。多いときは千人にもなった。彼らの日当は塩蔵鯨肉一斤だったという。勘定場の隣の棟では姉さん被りの女性たちが行儀よく座っている。

コツコツコツコツ、トントントントン。
運ばれてきた軟骨を包丁で切り分ける。そこで歌われたのが「骨切り歌」である。刻まれた軟骨は酒粕に漬け込む。松浦漬である。皮、脂、髭。鯨の体で捨てる所はなかった。鯨組では職場ごとに歌があったという。

「大モノが上がったぞ」

吉報は津々浦々に伝わった。唐津辺りから駆け付けたのだろう三味線を抱えた芸者衆。キセルに刻み煙草を詰めているのは幇間だろうか。大広間には漁師たちが勢揃い。中尾組の当主が羽差に最初の一杯を注ぐと無礼講。どんちゃん騒ぎの始まりだ。
しかし、繁栄は長くは続かなかった。明治期になると唐津藩という後ろ盾がなくなり、不漁が続いた。小川島捕鯨会社として細々と鯨を捕ったが、日露戦争がとどめを刺した。旅順港封鎖のために海軍が網を徴用したのだ。網を取り上げられては話にならない。時代のうねりの中に玄界灘の伝統捕鯨は消えていった。

父と娘、それぞれの龍

三川内焼(長崎県佐世保市)の「かく房窯」は白磁の至宝である。十四代の今村均氏とは三十年のつきあい。先年、十五代嗣となった今村ひとみ氏は、彼女がまだおさげお下げ髪の頃から存じ上げている。

      今村ヒトミ氏の龍

先般、十五代作成の龍を見た。毎年、干支の焼き物をシリーズで作られているが父上の作品を知っているだけに如何なるものになるのか興味があった。送られてきた箱を開けると手のひらサイズのデフォルメされた龍だった。極上の逸品だ。技術的なことは解らないが、何とも言えぬ品がある。私の拙い言葉ではとうてい言い表すことができない。父から娘へ。

幾多の困難を乗り越えながら、伝統を受け継ぐことの素晴らしさを私は感じた。

       今村均氏の龍

ザクロとクルミの苗を植えた

能古島行きの渡船「フラワーのこ」が着岸した。大きく口を開けた自動車甲板。それを跨ぐように一般のデッキがあり、その上に船橋がある。平底の割には風を受ける面積が大きい。操船には熟練が必要であろう。「フラワーのこ」が離岸して対岸の高層ビル群がだんだんと小さくなっていく。能古島まで十分ほどの船旅だ。

島の船着き場に能古宗拝さんが出迎えた。三年ぶりの再会である。一見して元気だと分かった。特段の用はない。

能古宗拝(Noko-So-High)は茶名。本名はティム。「能古、ソー、ハ~イ」。洒落の分かる男である。ティムはオーストラリア、シドニー近郊の町で生まれ育った。毎朝、自転車で家を出てサーフィン。そこから学校に行くが、しばしば遅刻して怒られた。学校からはサーフィンをして帰宅した。そんなサーフィン小僧は高校生の時、加納甚五郎を紹介する本を読んで日本を知り、日本に関する本ばかり読むようになったという。西洋にはたまに、このような人がいる。前世は日本人だったに違いない。

大学で日本語を学び、英語教師として来日した。二年間限定の予定だったが、日本人女性と結婚して永住を決意。紆余曲折、様々な縁で能古島に住み着いた。彼がもっとも感動した、あるいは日本理解につながった本は「茶の本」(岡倉天心)。ティムは福岡大学などで英語を教える傍ら茶道に努め、いまは南坊流の教授である。大したものだ。この男、やはり、前世は日本人だったのだろう。

三年前から島内の荒れ地に「実のなる木」を植えている。

「あれこれ試したが、これしかないよ」

ザクロとクルミである。両者ともいくつかの品種があるが「オニグルミ」など日本の品種である。理由は「カラスとイノシシの食害に強いからだ」といい、すでに数十本を植栽した。能古島はむかし「残島」と記されていた。ザクロやクルミはやがて大木となり、ティムという男がこの地に生きた証となるだろう。

ホームセンターの季節感

近所のホームセンターを覗いた。商売繁昌の演芸コーナーは花盛り。そこが最も季節を感じる場所であるという、我が身の五感の切なさ。

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