(1)
22年の夏は猛暑だった。順調に実をつけていた家庭菜園のミニトマトは8月に入って枯れ始めた。普段は地中深くに棲む青枯れ病菌が温度上昇で活性化して地表近くにまで広がり、トマトの根から侵入して葉から茎へと枯れ始め、やがて全体が死んでいった。この菌が侵入したら対処する方法がない。容赦なく伝染していく。私は枯死したトマトを引き抜き、剪定鋏で裁断して家庭ごみとして処分した。その際、樹液が手に着いた。
翌日、手指の皮膚に普段とは違う「張り」を感じた。それは日増しに昂じて「こわばり」というべき状態になっていった。痛みはないが不気味だ。近所の皮膚科医院を訪ねて軟膏を処方された。効果はなかった。さらに別の皮膚科を受診した。ネットの評判が良かったからだ。院長は私の手のひらと肘をちらっと見て「神経の異常だ」と仰せである。支払い窓口で整形外科への紹介状を渡されたが、私は整形外科を受診しなかった。神経ではないという直感があったからだ。
青枯れ病が気になった。トマトの樹液からその菌が入り指に何かの異常を引き起こしているのではないか。歯医者さんでもらった鎮痛剤(ロキソニン)の飲み残しがあったので気やすめに飲んでみた。すると嘘のようにこわばりが解消した。だが、それも一時のこと。しばらくすると効果がなくなった。友人の内科医に相談して抗生剤を処方してもらったりもした。あれこれやってみたが効果なし。手指のこわばりが続いた。
(2)
高校の同窓会があったのは11月。再会した旧友たちの中に皮膚科医のM君がいた。彼は町医者として人々の信頼を集めて診療を続けている。宴たけなわ。私の手を一瞥したM君は自己免疫疾患の可能性があるという。汗が塩の結晶となって手指に付着し、それを自身の免疫が異物とみなして攻撃するのだと。私は汗かきだが、まさか自分の汗が…。半信半疑でM皮膚科医院を受診した。酔眼の彼が見立てた通り、私の指には塩の結晶が付着していた。拡大鏡の丸い視野の中にきらきら輝く粒がいくつも見えた。処方されたステロイド軟膏が効果を発揮した。こわばりが消え指を曲げる際の違和感が消えた。
翌年3月末まで、私は手指の異常を忘れて過ごした。しかし、このころから肩、首、腰、膝に違和感が生じた。凝りではないもやもや。整骨院で揉んでもらうと楽になった。しかし、翌日にはぶり返す。私は三日とあけず整骨院に通った。整骨院の院長が施術しながら懸念を口にした。「肩凝りというものは右なら右が凝る。普段の姿勢が悪くて骨がずれるとか、そんなことだ。それを矯正するのが私の仕事だが、あなたの場合、今日は右肩、明日は左肩。今日は右腰、明日は左腰。来るたびに左右が違う。何か悪い病気が潜んでいるかもしれない。一度、内科の病院で検査を受けた方がいい」そんなアドバイスを受けながら、私は放置していた。
(3)
ビジネスと観光を兼ねた台湾旅行(三泊四日)から帰ったのは4月末。タイトなスケジュールと言葉が通じないストレス。私はかつて経験したことがないような疲れを感じた。数日後、手のひらがすっかり土色に変わった。浮き出ていた血管は全く見えなくなり餅が膨らんだように腫れあがった。手のひらの厚みが二倍になったように見える。指が曲がらず力が入らない。皿やコップを落とし、戸を開けることができない。重い荷物は持てない。電車、バスの吊革につかまることができない…。夜、トイレに起き上がるのには難儀した。まず寝返りを打つ。風呂で使う座椅子に肘を当てて上半身を起こし、机につかまってよろよろと立つ。立ってしまえば普通に歩くことができた。
ある総合病院を受診し、入院したのは5月半ば。風呂、トイレ付きの個室しか空きがなかった。窓外に住宅地が見える。入院しても治療が始まるわけではない。ナースが来て検温、採血。その日のメニューが伝えられる。
「今日は14時から血管造影です。13時半に点滴用の針を刺します。そのまま1階の検査室に行きます」。超音波診断、CT、X線…。検査は毎日一項目。検査場所まではナースが押す車椅子で移動した。初めて乗った車椅子。目の位置が低いせいか意外なほど速く感じた。
朝食が運ばれてくる。小ぶりな丸いパン。パックの牛乳。半分に切ったバナナ。入院患者一人一人メニューが違う。カロリー制限があるからだろう。朝食が終わるとすることがない。いつの間にか昼食。検査。そして夕食。煮物が薄味で参った。パソコンを開いてYouTube。見るのは海外の政治情勢ばかり。人気のユーチューバーはいずれ劣らぬ見識の持ち主。その情報収集能力、勉強量はたいしたものだ。YouTubeは目と耳から入って鼻から抜ける感じだが、こんな風に毎日見れば内容の幾らかは残る。Wi-Fiは午後8時半までつながっていた。夜、当直のナースが見回りに来る。これが大病院の一日である。実はここから、恐ろしい深夜を迎える。膠原病に罹るのは女性が多いとされる。確かに入院患者は女性ばかりだった。病室のドアは開けていて目隠しのカーテンで仕切られている。昼間は面会者もいる。外の風景も見える。食事もあって気がまぎれる。しかし、消灯後は恐怖や絶望が襲ってくるのだろう。
ウーー、ギャーー
低く、くぐもった、押し殺した呻きが廊下を這うように聞こえてくる。激痛に耐えかねた叫びだろう。地獄の底から聞こえてくるようだった。個室で助かった。私の部屋はナースステーションの近くにあった。患者たちがナースコールする。警報機の電子音が鳴る。聞き覚えのあるメロディーはバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」。患者の望みは自分たちの喜びであるということだろうか。安物の電子音はところどころ調子が外れていて悲しさを倍加させた。夜勤のナースが病室に向かう乾いた足音がする。
(4)
真っ先に病名を告げられた。
「関節リウマチ」
初診は膠原病科の最ベテラン医師だった。診断はついているが検査で確認するのだと主治医のN医師はいう。彼は40代に見えた。世俗的な質問はできない。余計なことは一切喋れない。そんな雰囲気である。しつこく話しかければ答えてくれたのかもしれない。しかし、こちらにもその元気がなかった。
私は亡父のことを思い出した。私立病院で癌の手術を受けたが、その際執刀医に「心づけ」を渡していた。ここは公立病院である。スタッフは公務員。業務に関して金品を受け取れば収賄ということになるのだろう。何事も法令順守である。ただ、患者と対話することは医療に於いて欠かせない行為でもある。ナイチンゲールはこう言っている。「病室の窓を開け、新鮮な空気を取り込み、医師には言えない患者の悩みを聞いてあげること。患者の不安を和らげること。それが看護の大切な役割である」
今は時代が違う。ナイチンゲールなんか「やってられない」のかもしれない。とにかく忙しい。ナースたちはカートを押して病室を巡回する。パソコンが置かれ、患者の様子などを打ち込んで引き継ぐ。薬と採血器具一式が乗せられている。多くの患者に対してミスなく業務をこなすための姿だろう。彼女たちとも無駄話はできない。
「今日は天気が良かねえ。早く退院できるごと祈っとりますばい。ご家族も心配しとらっしゃーでしょう」部屋掃除に来てくれるおじさん、おばさんとの短い会話が唯一の世間話だった。
病棟を出て検査に行けば本名ではなく四桁数字が付与される。各部門での受付。検査室での呼び出し。全て四桁数字である。院内は外来患者であふれている。待ち時間を減らし、コンピュータで効率的に事務処理するにはこれしかないのだろう。四桁数字を忘れる人がしばしば。呼び出しても返事がない場合、こんな言い方になる。
「お名前で失礼します。〇〇さーん」
本名ならば誰でも返事する。個人情報保護ということだろうが、院内はますます無機質になっていく。
(5)
その日は朝の採血が違った。いつもはガラス管に三本だが七本取った。「今日はたくさん血を採りますねえ」「ええ、そうです」血液検査は院内で行うが、リウマチ反応が現れないので東京に送って細かい検査をするのだと主治医から説明された。部屋を訪れる若い医師たちの数が増えた。おそらく私は珍しい患者なのだろう。外見はどう見ても関節リウマチだがリウマチ反応が出ない。ある時は一度に九人来て、半数近くの医師たちが私の指を触っていった。指は痛むがお構いなし。念入りにつまんだり、引っ張ったりする。私は顔をゆがめながら「医学のためだ」などと大げさなことを思った。主治医のN医師はさらに熱心だった。通常業務が終わった後に超音波診断機を持ち込んで延々と画像を見つめている。黒い画面に白く細い線が見える。私の手や指だ。消灯時刻を過ぎて午後十時過ぎまでそれは続いた。彼の熱心さ、責任感に私は胸が熱くなった。
一週間の入院予定が十日間に延びた。退院の朝、主治医から病状説明を受けた。血液検査でリウマチ反応は無かった。しかし、総合的に関節リウマチと診断したと。一か月分の薬を処方されて病院を後にした。