「ドアを閉めます」
東京にはしばしば行くが関西は久しぶりだった。指を折ってみると20年か、それ以上も足を運んでいない。「のぞみ」を新大阪で降りて地下鉄で淀屋橋。京阪電車に乗り換えて枚方市を目指した。電車がホームに滑り込み、しばらくして車内アナウンスが流れた。
「ドアを閉めます」
車掌さんの肉声である。
私は懐かしさを感じた。普段に利用するのは西鉄の電車、バス。車内アナウンスは機械音。
「ドアが閉まります」である。最初からこうだったのではなかった。かつては京阪電車と同じく「ドアを閉めます」だったのだ。
(京阪電車の出発。同社ホームページより)
西鉄電車の車内アナウンスが変わったのは50年も前のこと。私は高校生だった。
「ドアを閉めます。手を挟まれないよう、ご注意ください」
それが
「ドアが閉まります」
になった。ぶっきらぼうだなあ。ドアを閉めているのは人間(車掌)ではないか。「早く乗りなさい」とせかされているように聞こえた。ドアが勝手に閉まるような物言いに違和感を覚えた。魚の骨が喉に当たったような気分だったが、時が経過するなかで忘れていた。
「ドアを閉めます」
これが人間の乗り物だ。私はふんわりとした安心感と共に流れていく車窓の風景を眺めた。
枚方から伏見稲荷へ。外国人観光客の波をかき分けるようにして千本鳥居を歩いた。
「ドアを閉めます」が耳の奥で繰り返されている。東京のJR駅や車内アナウンスは
「扉が閉まります。閉まるドアにご注意ください」
それでも乗客が駆け込もうとするとマイクを持った駅員が
「扉閉まっております。次の電車をご利用ください」
イラッとしたような棘のある声で制止する。
「ドアを閉めます」であれば
「ちょっと待ってくれてもいいじゃないか」
などの申し立ても可能だが、それを遮るのが「ドアが閉まります」である。ドアは閉まるものなのである。定めには逆らえない。殺伐とした首都圏の通勤現場。大都会の住人は朝から無気力に下を向き、方寸のスマホ画面に見入っている。
明石のタコ
関西ではJRも私鉄各社も「ドアを閉めます」であった。東京に比べれば良い意味で田舎(ローカル)なのである。人々の顔に表情がある。街に活気がある。この国を再生させるのは中央からではない。ローカルが中央に反乱して変わっていく。それがこの国の歴史だ。
大阪、神戸から明石に足を伸ばした。明石と言えばタコである。駅前のアーケード。鮮魚店には地ダコが並び、居酒屋のメニューはたこだらけ。明石焼きの店先では昼間から飲んで気炎を上げる人たちがいた。家族連れも繰り出している。
深呼吸した。人間の臭いがする。活気に満ちた下世話な空気が、私のからだを巡った。