自分なりに最後まで
青野照市九段
将棋の青野照市九段(70)が昨日、藤本渚四段(18)に敗れ、規定により引退が決まった。奇しくも、最高齢棋士の引退を決めた相手が最年少棋士。青野九段は局後のインタビューで「自分なりに、最後まで戦った」と語った。
青野九段といえば「鷺ノ宮定跡」。鷺ノ宮に住んでいた青野九段の自宅に若手が集まり、研究して編み出した戦法。当時の将棋を革新した。大山康晴、中原誠、谷川浩司、羽生善治。8歴代のトップ棋士たちと覇を競ったが、ついにタイトルを手にすることはできなかった。
藤本四段は今年度、歴代最高勝率を記録。これからの将棋界を牽引するだろうと言われる逸材だ。二人の年齢差は53歳。青野九段より53歳上となると金子金治郎九段。江戸時代、将棋が家元制だったころの名残り色濃い人である。初代実力名人の木村義雄名人でも青野九段との年齢差は40歳だ。
「最近、若い人と対局すると序盤で作戦負けして挽回できなくてねえ」
鷺ノ宮に集まり、議論し、酒を飲み、何年もかかって生み出した新戦法だが、今では卓上のパソコンに掛ければ数分で答えを出してしまう(囲碁も同じ)。将棋の棋力はほとんど暗記力になりつつある。嘆いても仕方ない。時代は前にしか進まないのだ。
「自分なりに、最後まで戦った」
青野九段はさばさばした感じ。勝負師らしい気持ちよい幕引きだった。その後、現役800勝の大記録も達成された。
流れが変わった
天神
午前11時半の喫茶店はガランとしていた。ご主人に聞くと12時からは満席になるのだと。この街は数年前から「天神ビッグバン」と称して70棟ものビルが建て替え中である。
「食事の店がなかとでしょ、ランチの時だけ賑わうったい」
かつては喫茶の需要が多く、午後8時ぐらいまで客が絶えなかったのだが。
「博多駅の方が賑わっちょるらしかですね」
その通り。博多駅周辺は海外からの観光客を合わせて繁盛している。
福岡市の商業中心は時代と共に移動してきた。戦後だけでも中洲・川端から博多駅周辺、そして天神。さらに博多駅へ。二眼レフの町である。70棟もの新築ビル群。テナントが入らすに四苦八苦している。
エミウが逃げた
本日の西日本新聞によると、油山(福岡市)でエミウの目撃情報が相次ぎ、近くで飼われていた四羽の内の一羽であることがわかった。エミウは飛べない鳥。とはいえ鳥類だから一羽と数えるが「一羽」と呼ぶには違和感がある。ダチョウを一回り小型にしたような生き物で脱兎のごとく走る。こいつにケリを入れられたらタダでは済まない。
エミウと聞いて思い出したことがある。明治初年のこと、江戸は溜池の鍋島家でつがいのエミウを飼っておられた。庶民が小鳥を賄うのとは桁が違う。五万坪といわれるお庭を二羽のエミウが走り回っていたそうな。
ある時、真っ赤な珊瑚をあしらった奥様のかんざしが紛失した。さあ、大変。探せど探せど見つからない。真っ先に女中さんが疑われ、癇癪を起こした奥様にヒマを出された。しばらくしてエミウの巨大な糞の中に真っ赤なかんざしを見つけたのは年老いたお庭番だったという。その後どうなったかは知らない。
油山は私の散歩道(写真の通り)。エミウにケリを入れられぬよう、せいぜい注意して参りましょう。
正平調
神戸新聞の先輩、林芳樹さんは一面下コラム「正平調」を04年から23年の退職まで約2000本を書き続けた。新聞社に身を置いた者としてその地道な努力に驚嘆する。林さんの偉業に報いるため、後輩たちが本にした。
本は10日ほど前に送られてきた。阪神淡路大震災を経験された林さんの筆致は限りなく優しい。私は毎日2~3本づつ読んでいる。一度に何本も読むのがもったいないからだ。何と表現すればいいのか、毅然とした優しさだろうか。
街に人垣があれば覗いてみる。行列があれば並んでみる。海外の事件や話題にも網を張っている。仕入れたネタは図書館に通って裏付ける。いくらネタが良くても料理人の包丁がなまくらでは養殖ハマチ。テラテラした脂臭が鼻をつくのだが、林さんの筆には一点の邪心もなく、晴明な空気が滲んでいる。
高齢者が集まる場末の喫茶店。モカブレンドを飲みながら時間を忘れた。いかん、いかん。10本も読んでしまった。カップの底に残った黒い液体をすすって外にでた。爽やかな読後感が背中を押して足が軽かった。
WAKANA
創業1934(昭和9)年。おそらく福岡市ではかなり古い洗濯屋さんだと思われる。都心のマンションに囲まれている。玄関脇のウインドウには博物館に入りそうなアイロンが6台
(6個というより重々しい)飾られている。炭を入れて使う
のだろう。
「このお店で使われたものですか?」
「さー、アメリカのアイロンらしいですよ」
従業員も詳しいことは知らない。
クリーニングは英語。しみぬきは適当な言葉が見当たらなかったのか、日本語のローマ字表記だ。
あなたの大切な衣類を真心こめて、、。
プレス機をデザインした真鍮の銘板に創業者のプライドを感じた。ひょっとしたら、アメリカに移民してクリーニング店を開き、祖国に帰って店を構えた人かなあ。想像を膨らませた。
現役時代ならば名刺を出して取材も簡単だけど、初見であれこれお尋ねするのは憚られた。不審者と思われるよなあ。